完璧主義の限界と、カオスの受容

完璧主義というのは、あまりいい意味では使われないことが多い。
何か、堅苦しい感じがする。
だが、そこについ陥ってしまいがちでもある。

では、なぜ完璧主義がよくないか。
俺なりの考えを言おう。
それは、本人が完璧と思っていても、それは完璧ではないからだ。
そう、完璧というのは、恐らく存在しえないのだろうと考えている。

例えば、完璧に仕上げたと思っていた作業。
しかし、それの粗を探せば、必ず出てくるはずだ。
その粗を修正したもの。
そこにもさらに新たな粗が出てくるはずだ。

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そう、粗探しは永遠に終わらず、よって、永遠に完璧に到達することもない。
例えばゲームの世界で、完璧なクリア、スコア、というものは存在するかも知れない。
それは製作者が、そのゲームの世界の限界を設定していればの話だ。

しかし、現実世界で完璧を達成するのはほぼ不可能であろう。
もし実現したというのなら、それは不都合なところを見て見ぬふりをしている、本当は不完全なものであろう。

現実世界で完璧主義がほぼ意味を成さないとして、ならどうすればいいか。
俺は、西洋的な白黒ハッキリさせましょうという考えより、東洋的ないい加減(良い加減)な考えで、大きな流れを捉えればいいと思う。
西洋的な考えを否定しているわけではなく、これを西洋的に表現するなら、70%(70%でなくてもいい)程度の出来で合格としましょうという感じである。
だが、俺としては、数字で表すより、カオスを受け入れるような東洋的アプローチが好きだ。

お前の思っている完璧は完璧ではない。
無駄な消耗は止めて、カオスを受け入れよ。
新たな道が拓けるはずだ。

中二病全開ではあるが、まんざら間違ってもいないはずだ。

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