日常

恐怖と快楽と生きること

投稿日:

今日、健康診断の結果が返ってきた。
隠居にも関わらず、俺は健康診断を受けたのだ。
というか隠居だからこそ、自分から進んでそういうことをしないと健康を診断する機会がない。
だから、血液検査の簡単なやつをしたのである。

で、今回の結果は正月明けだったのだが、Oh、能・・・前回より悪くなってたorz
前回というのは、それより数ヶ月前のことである。
数ヶ月ごとに検査しとこうと思っているのである。

医者からは、少し不摂生になっていると言われた。
Oh、能orz

正月明けでたくさん食べた後での検査で、まあ不利な条件だったとは言え、これはいただけない。
言い訳にならない。

本当は今日も何か美味いものを食おうと思っていたのだが、検査結果を見て、一気にその食欲も失せた。
もうクリーンなものしか喉を通る気がしない。

俺は、思った。
恐怖は、快楽に勝る動機になると。

つまり、それまで快楽優先で生きてきたのに、健康診断の悪い結果という、そのまま放置すれば最悪の場合生存に関わってくる恐怖を突き付けられたわけである。
不摂生な暮らしを続ける→体調を崩す→最悪しぬ
この流れである。

というわけで、早速改めるところを決めた。
まず、歩く距離が短すぎるのでもっと歩く。
食事もやや気を緩めがちだったのでもっとクリーンな食事を心がける。
夜更かし結構してたので、しないようになるべく昼寝を避ける、昼寝を避けるために昼眠くなったら歩く。
こんな具合である。

今までの経験上、これらをやっていけば健康診断の結果もまた元の正常値に戻るはずである。
何もきっかけがないとこういうことは長続きしないのだが、不摂生な暮らしを続ける→体調を崩す→最悪しぬ、つまり最悪しぬという恐怖があると続くものなのである。
恐怖は快楽を凌駕する。

隠居してからというもの、やはり気を抜いていた部分があったのは否めない。
だが、快楽のままに動いていては、やはり最悪しぬのである。
せっかく今が快適なのに、しんだら元も子もないのである。




今回、久々に恐怖に直面して、気付いたことがある。
恐怖は、生きる実感を与えてくれる。
いや、恐怖というより、「し」かも知れない。
しぬ恐怖に怯えるからこそ、生を実感できる気がする。
久々にこんな感覚を味わった。

結局のところ、やらなければしぬことだけをやっていればいい気がする。
それは運動であったり、食事であったり、睡眠であったり。
その中でも運動は、やらなければしぬことなのに、そのことを忘れがちでなまけがちである。
運動というのは筋トレもそうだが、やっぱり歩くことだ。
歩かなきゃ始まらん。
俺は筋トレはしてるけどあんまり歩いていないっていうので駄目だった。
だから歩くのもする。

そして、直接生存に関わらないこと、例えば趣味とか、そういうものは、それがしぬほどやりたいものならやればいいのだ。
しぬほどやりたいものでもないならやらなくていい。
それなら直接生存に関わる、やらなきゃしぬこと、食事、睡眠、運動、最低限の金稼ぎ、そういうことをやっていればいいのだ。
しぬほどやりたいわけでもない、やらなくてもしなないことを、今やっとかないと後で後悔するかも、なんて思ってやってると、どうでもいいことをやってしぬほどやりたかったことをできなかったことを後で後悔する、多分。
生存に関係ないことは、しぬほどやりたいことだけやればいい。

人間は恐怖に怯えて生き物らしくなれるということか。
それは言い換えれば警戒。
サバンナでライオンに喰われまいとして警戒するシマウマ。
それである。

暴落で生き生きしてくるのも、そういう要素があるのだろう。
身の危険を感じる。
恐怖を感じる。
だから生を感じる。

難しいことなんか考えなくていい。
ただ、やらなきゃしぬからやる。
それだけである。
そして、それが最も人間らしい生き方のはず。

俺は、今から歩いてくる。
しにたくないから。

-日常

Copyright© 霧末は隠居している , 2021 All Rights Reserved Powered by STINGER.